
給仕の技能
紅茶、コーヒー、ワイン、食卓の整え方、銀器の扱い。手が覚えるまで繰り返す実技の柱です。試験で最初に見られる部分でもあります。

執事を、本気で学べる学校です。運営は全日本執事協会。私は協会の頭取として、この学校の学長を兼ねています。何を、誰が、どう教え、修了した人がどこへ向かうのか。教える側の立場から、学校の内側をお見せします。
日本執事アカデミーは、執事になりたい人のための学校です。ホテルや接客の学校は数あれど、執事という職業そのものを教える学校は日本にほとんどありません。協会が学校を持つ理由はそこにあります。執事は現場で見よう見まねで覚えるものだ、という時代を終わらせたかったのです。
本校は東京・お台場の青海にあり、協会の本部と同じ建物です。授業は土日、一日六時間。平日は働きながら、週末に執事の型を身につける。受講生の多くは、接客、事務、医療、それぞれの現場を持つ社会人です。
学長として私が教室で繰り返すのは、執事は「相手を見る仕事」だということです。紅茶の淹れ方も銀器の磨き方も教えますが、それは相手を見るための手段です。技術が目的になった瞬間に、執事は給仕人に戻ってしまいます。
学校を持つと決めたとき、私が最初に書いたのは校則ではなく、「教えないこと」の一覧でした。愛想笑い、過剰な敬語、相手を持ち上げる言葉。それらは接客の学校では教えるかもしれませんが、執事の学校では教えません。執事は相手を持ち上げるのではなく、相手の前に静かに立つ職業だからです。
もう一つ、学校を持つことで避けたかったのは、執事の技が個人の中に閉じることです。優れた執事がいても、その人が教えなければ技はその人とともに終わります。教室という形にして初めて、所作は次の世代へ渡ります。学校は、技を人から制度へ移す装置です。
受講生に最初に渡すのは道具ではなく、一冊の帳面です。授業で気づいたことを、その日のうちに書く。書かれた言葉は翌週の教室で読み返され、講師が答えます。執事の仕事は記録の仕事でもありますから、学びの最初から帳面を持たせます。

アカデミーの運営者は、1890年創立の全日本執事協会です。学校が協会の中にあることの意味は一つ。教室で教えたことと、認定の審査で問われることが一致する、ということです。外の学校で学んで協会の試験を受ける形だと、どうしても教える内容と審査の基準がずれます。同じ組織が両方を持つことで、そのずれをなくしました。
協会の作法は135年かけて編まれてきたものです。アカデミーの教科書はその作法を課程ごとに分け、所作の一つひとつに理由を添えたものです。学ぶ側から見れば、本校で学ぶことは協会の基準そのものを学ぶことになります。
裏付けは制度だけではありません。講師が協会の認定執事であり、教室が協会の館であり、教材が協会の教科書である。学ぶ環境のすべてが協会の基準の中にあることが、この学校の裏付けです。外から見れば当たり前に見えるかもしれませんが、執事の学校でこれを揃えている例は他にありません。
協会の中に学校があることの効き目は、教科書の改訂の速さに現れます。現場で新しい場面が生まれれば、協会の条文が改まり、その学期の教材に反映されます。外部の出版に頼っていれば、この速さは出せません。

校則より先に書いたのは、教えないことの一覧でした。愛想笑い、過剰な敬語、相手を持ち上げる言葉。執事は相手を持ち上げず、相手の前に静かに立つ職業です。
本校の学びには三つの特徴があります。定員を少人数に絞ること、練習に本物の銀器と食卓を使うこと、教えるのが現役の執事であること。どれも、執事が「隣で見て写し取る」ことでしか身につかない職業だからです。
三つの特徴を支えているのは、実は四つ目の特徴です。教室が館の中にあること。隣の部屋では、卒業した執事が実際にご主人さまにお仕えしています。受講生は授業の合間に、教科書の型が現実に動いている姿を廊下越しに見ます。これほど確かな教材はありません。
少人数であることは、受講生にとって逃げ場がないということでもあります。手が止まれば講師に見られ、間合いを外せばその場で指摘されます。厳しいと言われますが、現場で初めて指摘されるより、教室で指摘されたほうが安い。教室は、失敗してよい唯一の場所です。
本物の銀器を練習に使うと、必ず傷がつきます。それでも使うのは、傷を恐れる手つきでは執事になれないからです。恐る恐る扱えば動きは硬くなり、硬い動きは客席から見て落ち着きません。協会は練習用の銀器を毎年入れ替える前提で予算を組んでいます。傷は授業料の一部だと考えています。
定員は六名、最少催行は三名です。講師が受講生一人ひとりの手元と視線を見られる人数に限っています。
練習は協会の銀器、磁器、食卓で行います。模造品で覚えた手は、本物の重さの前で必ず崩れるからです。
講師はTHE BUTLERの現場に立つ認定執事です。教壇の言葉が現場の言葉と同じであることを大切にしています。

課程は三つ。目的の段階から一つを選びます。上の課程は下の課程の内容を含むので、経験がなくても直接入れます。期間と時間数は次のとおりです。

お茶の出し方、卓の整え方、お客様のお迎え、立ち姿と一礼。執事の土台にあたる型を、短い期間で一気に身体へ入れる入門の課程です。修了して実技に受かると、認定アソシエイトバトラーの称号が授与されます。

エッセンシャルの内容を含んだうえで、ワインの給仕、催しの運営、国際的な作法へ進む中級の課程です。本物のサービスを客として体験する実習を含み、修了で認定プロフェッショナルバトラーとなります。

エッセンシャルとアドバンスの内容を含み、管理、危機対応、国際プロトコルまでを扱う最上級の課程です。修了時には卒業ディナーの形で実技試験を行い、合格で認定マスターバトラーとなります。
課程の中身は、給仕の技能、作法と教養、そして現場の実習の三つの柱で組んでいます。どの柱も、協会が監修した教科書に沿って進みます。

紅茶、コーヒー、ワイン、食卓の整え方、銀器の扱い。手が覚えるまで繰り返す実技の柱です。試験で最初に見られる部分でもあります。

装い、礼、言葉、そして執事の歴史と文化。所作の「なぜ」を知るための柱です。全課程で協会監修の教科書を用います。

本物の来客を想定した実習と、一流のサービスを客として受ける体験。教室で覚えた型を、人の前で使えるようにする柱です。
各課程の最終日に実技試験があり、合格した人に協会の認定が授与されます。国家資格ではなく、協会が定めた基準による民間の認定です。称号は課程に対応して三つあります。

基本の型が身についていることを、紅茶と食卓と来客応対の実技で示した人に授与します。

ワインと催しと国際的な作法まで含めた実技で、一日以上の依頼を任せられることを示した人に授与します。

卒業ディナーの形で複数の役目を同時に回す試験に合格した人に授与します。人を束ね、家全体を設計できる段階です。
授業は土曜と日曜だけです。一日は六時間、九十分を四つ。動画で先に見ておける部分は教室の外に出し、顔を合わせている時間は実技とやり取りだけに充てました。平日の勤めを続けたまま通えるように日程を組んでありますので、いまの職を辞めてお越しになる必要はありません。
教室で講師が一番多く言うのは「まだです」という一言です。お客様が手を伸ばす前に器へ触れてしまう。呼ばれる前に口を開いてしまう。手順そのものは映像でも覚えられますが、この呼吸だけは、隣に立つ人の身体からしか写せません。顔を合わせる時間を実技に使い切るのは、そのためです。
課程の途中で一度だけ、講師が受講生に「今日は何も教えません」と言う日があります。その日は受講生だけで午後の紅茶の席を回します。段取りを立て、失敗し、立て直す。教わった型が自分のものになったかどうかは、教わらない日にしか分かりません。
予習をオンデマンドの動画に回したのは、対面の時間を惜しんだからです。講師と同じ部屋にいる六時間は、動画では代えられません。器の重さ、湯気の立ち方、相手の呼吸。画面を通さないと分からないことが、執事の仕事にはあまりに多いのです。
授業で最初に直すのは、たいてい姿勢ではなく視線です。所作を覚えようとする受講生は、自分の手元ばかりを見ます。手元を見ている執事は、相手が何を求めているかに気づけません。講師は同じ言葉を何度も掛けます。手ではなく、相手を見てください、と。この一言が通るまでに、たいてい数週間かかります。

アドバンス以上の課程には、受講生が客の側に座る実習があります。ホテルやレストランで一流のサービスを受け、何が心地よく、何が引っかかったかを言葉にする。給仕する側にいると見えないものが、される側に座ると一度で分かります。
この実習を入れたのは、執事の仕事が「相手の目線を想像する仕事」だからです。想像には材料が要ります。自分が客として扱われた記憶が、現場で相手を見るときの物差しになります。
実習のあと、受講生には「気づいたことを三つ、良かったことを三つ」書いてもらいます。良かったことより気づいたことのほうが多く書ける人は、すでに執事の目を持ち始めています。反対に良かったことしか書けない人には、次の実習で席の位置を変えます。見る角度が変わると、見えるものが変わるからです。
客として座る実習には、もう一つの狙いがあります。仕えられることに慣れていない人は、仕えることも上手くいきません。恐縮しすぎる人は、相手が恐縮する場面を作ってしまう。客席に座る時間は、その加減を身体で覚えるための時間です。

課程の中身より先に決めたことが三つあります。どれも、教室の言葉が現場から離れないようにするための取り決めです。
講師が自分でやってみせられない型は課程に入れません。身体に入っていない型を、人に渡すことはできないからです。
一人の講師が同時に見られる手元は多くて六組です。七組目からは、崩れた所作が見過ごされ、そのまま現場に出ます。
練習に本物の銀器を使えば必ず傷がつきます。それでも使うのは、傷を恐れる手つきでは執事になれないからです。
本校は東京都江東区青海二丁目にあります。協会の本部、THE BUTLERの窓口、Queen's Butlerの館と同じ建物で、教室での練習は館の食卓と銀器を使って行います。見学と個別相談は予約制です。
本校が館の中にあることには、もう一つ意味があります。受講生は授業の日、Queen's Butlerの館で実際に仕えている執事の動きを目にします。教科書の型が、隣の部屋で現実に動いている。学ぶ場と働く場が一枚の壁で隔てられているだけ、というのが本校の距離です。
本校をお台場に置いたのは、都心から少し離れていることも理由の一つです。週末に、電車を乗り継いで海辺まで来る。その移動が、平日の仕事と学びの時間を切り替える助けになります。受講生の多くが、この移動の時間を惜しくないと言います。
東京都江東区青海二丁目7-4(お台場)
土日開催・一日六時間・定員六名(最少催行三名)
資料請求と個別相談は無料。オンラインでも承ります。

課程を終えて段を得た執事は、その多くがTHE BUTLERの現場へ向かいます。学ぶ場と、働き先を差配する窓口が同じ協会の中にありますから、修了した翌週から道が続いています。務め先の知らせを修了生へ回す仕組みも、いま協会で組み立てているところです。
何歳であっても、前に何をしていても構いません。窓口に立っていた方、書類を扱っていた方、病床の側にいた方。そうした場で養われた判断は、執事の務めにそのまま持ち込めます。教室で見てきた限り、伸びるのは前の職場で相手をよく見ていた人です。
修了生の中には、執事にならない道を選ぶ人もいます。ホテルに戻る人、家業を継ぐ人、医療の現場に戻る人。私はそれも成功だと考えています。相手を見る型は、どの職業に持ち帰っても働きます。執事の学校で学んだ人が、執事以外の場所で執事のように振る舞う。それは執事文化が広がることに他なりません。
進路の相談は学長である私が直接受けます。執事として立つのか、いまの職場に型を持ち帰るのか。どちらを選んでも、学校は修了生の名前を覚えています。協会の研鑽の場は修了生にいつでも開いており、認定の段を上げたくなったときには、また教室に戻ってこられます。
修了生に私がよく言うのは、最初の一年は名を上げようとしなくてよい、ということです。執事の評価は、その場で拍手される仕事ではありません。半年たって、そういえば困っていない、と気づかれる。それが良い執事の仕事の現れ方です。
卒業してすぐに常駐の務めへ進む人は多くありません。多くは数時間の依頼から入り、季節をいくつか越えてから一日の務めへ移ります。学校としては歯がゆく見えることもありますが、急がせません。執事の仕事は、同じ家に二度目、三度目と伺って初めて本領が出る職業です。その二度目を迎えるまでが、修了生の最初の課題です。
求人の情報を協会が扱う以上、条件の良し悪しだけで紹介することはしません。その家が執事をどう扱うつもりかを、先に伺います。過去には、執事を人手として数えているとしか思えないお話をお断りしたこともあります。修了生を送り出す学校である以上、送り出した先で何が起きるかまでが学校の責任です。
修了から数年たった卒業生が、教室に戻ってくることがあります。現場で行き詰まった型を確かめに来るのです。私はその日、講師ではなく聞き手に回ります。現場を持つ人の困り方は、教室にいる私より具体的で、こちらが教わることのほうが多い。学校が修了生に開いているのは、実はこちらの学びのためでもあります。

気配りは生まれつきではありません。相手を見る型を身体に入れれば、誰でもできるようになる。才能なら、学校は要らないのです。
「気配りは生まれつき」と言う人がいます。学長としての私の答えは反対です。気配りは、相手を見る型を身体に入れれば誰でもできるようになる。だから学校が要るのです。才能なら学校は要りません。
型を教えるとき、私は必ず理由を添えます。器をなぜ右から置くのか、なぜ声を掛ける前に半歩下がるのか。理由を知った型は場面が変わっても崩れず、理由を知らない型は初めての場面で必ず崩れます。教科書に理由が書いてあるのは、そのためです。
そしてもう一つ。教室で私が最後に教えるのは、型を捨てる瞬間です。相手が型どおりの応対を望んでいないと分かったとき、執事は型を離れて相手に合わせます。それができて初めて、型は本当に身についたと言えます。
型を教えるとき、私は必ず自分でやって見せます。言葉で説明できることは教科書に書いてあり、教室で講師がすべきことは、その言葉の通りに身体が動くところを見せることです。講師が見せられない型は教えない。それが本校の講師の約束です。
型を身体に入れる過程は、誰にとっても退屈です。同じ所作を何十回も繰り返す。その退屈に耐えられる人が、現場で退屈な時間を静かに待てる執事になります。学校が教えているのは所作であると同時に、待つ力でもあります。
理由を添えて型を教えると、受講生から思わぬ問いが返ってきます。その理由なら、こちらの手順のほうが自然ではありませんか、と。私はその問いを歓迎します。協会の条文が改まってきたのは、現場からの声と、教室からのこうした問いの両方によってです。
教えていて最も難しいのは、何もしない時間の教え方です。受講生は、手が空くと何かをしようとします。けれど執事の一日の多くは、待つ時間でできています。待っているあいだに姿勢を崩さず、視線を落とさず、呼ばれたら一歩で動ける。この何もしていないように見える状態こそ、最も訓練を要する型です。

教室は、館の部屋そのものです。練習に使うのは協会の食卓、銀器、装い。三つを挙げます。

暖炉とシャンデリアのあるサロンで、来客の迎え方と食卓の整え方を練習します。教室が本物の館なので、本番との差がありません。

協会の銀の茶器と磁器を使います。重さ、温度の伝わり方、音。本物でしか覚えられない手の感覚を、ここで身につけます。

モーニングコート、燕尾服、白手袋。装いの課程では実物を身に着け、着方と手入れを学びます。装いは執事の名刺だからです。
各課程は季節ごとに開校します。迷っている方には、一日の体験講座とセミナーを用意しています。紅茶の給仕と礼の型を半日で試し、教室の空気を確かめてから課程を選んでいただけます。
資料請求と個別相談は無料で、オンラインでも承ります。募集要項、日程、受講の条件は公式サイトでご確認ください。学長として一つだけ申し上げるなら、迷っている時間より、一日の体験のほうが答えは早く出ます。
体験講座で私が見ているのは、器の扱いの上手さではありません。講師の話を聞くときに、講師の顔を見ているか、手元を見ているかです。顔を見る人は、教わる前から相手を見ている。その人には、課程の初日から一つ先の型を渡します。
体験講座に来られる方の三割ほどは、執事になる気がありません。家族をもてなしたい、自分の店の応対を変えたいという動機で来られます。私はそれで構わないと考えています。執事の型を持ち帰る人が増えることは、執事という職業が理解されることだからです。
体験講座のあと、受講を決める方と決めない方の差は、意外なところに出ます。決める方は、帰り際に必ず自分が使った器を片づけようとします。教わっていないのに、です。執事の学校が見ているのは、その手が自然に動くかどうか。技術は教えられますが、動きたくなる気持ちは教えられません。

各課程の日程、学費、募集要項、体験講座の申し込みは、日本執事アカデミーの公式サイトにあります。このページは学長の立場からの紹介ですので、受講の条件は必ず公式サイトでご確認ください。
各事業の窓口の見分け方や、どこへ相談すべきか迷われたときは、執事ベルからお取り次ぎいたします。